安土城址と信長記念館
八幡山をあとにして、次に向かったのは安土城があった
安土山にタクシーで向かいました。タクシーでは約20分
ほどのところにありますが、今回は時間の都合で入口迄
来て、近くに建てられている「信長の館」と「郷土博物館」
に向かいました。
安土城址は信長ファンが多数訪れているそうですが、ほと
んどの方は肩を落として帰られるそうで・・・期待しすぎだと
は思いますが、そんな状況であるとタクシーの運転手さん
は笑って仰っておりました。
織田信長は安土城を建築し、その強大な力を誇示していま
したが、盛者必衰の言葉通り1582年重臣の明智光秀に謀反
され、49歳の生涯を閉じると共に、豪華絢爛な様相の安土
城も火を掛けられ灰燼に帰してしまったのであります。
かつて信長は徳川家康がに参りました折、松永久秀と云う三
好家の元重臣を紹介し、「この老人は、主家三好家に謀反し、
将軍(足利義輝)を暗殺し、奈良の大仏殿(東大寺)を焼失さ
せた、普通の人間では到底為し得ない、悪逆を行った物騒千
万な老人である。」
と云う様な事を申しましたが、実はこのように申した信長自身、
「主家である尾張守護の斯波家を国外追放し、守護代の織田
本家を乗っ取り、将軍(足利義昭)を追放し足利幕府を滅亡さ
せ、比叡山延暦寺を尽く焼き尽くした。」
のであります。
「草枯らす 霜また今朝の 日に消えて
因果はここに 巡りに来にけり」
「草枯らす 霜また今朝の 日に消えて
報いのほどは 終に逃れず」
三好物外軒実休
織田信長は結果的に明智光秀に殺されましたが、羽柴秀吉・
イエズス会に殺されたと云う説も最近浮上しております。
いずれにせよ異端児であるがゆえ敵は多かったのであります
織田信長がもう二十年長く生きていれば日本の近代がもっと
早く訪れていただろうと云う学者・知識人は多いのであります
が、もし生きていれば、朝鮮は当然ながら、明は政権末期で
ありましたので、当時世界最強の軍隊を保有していた日本の
力をもってすれば切り取る事は可能であったと思いますが、
どれだけの期間保持できたかはわかりません。
なぜなら中国大陸は時代時代の狭間で乱世となり、国土自体
保有する事は案外簡単の様ではありますが、政権をどれだけ
保持出来るかどうか、それが一番難しいのであります。
(今までの最高は漢帝国の前漢・後漢合せて400年であります
。(但し途中で「新」に10年程分断されています。)
周については前1100から細々と前200頃まで命脈を保ちまし
たが、国家の規模としては小さく、統合するものの名称は「王」
でありまして、秦王政から称した「皇帝」とは比べ物にならぬほど
権力は小さく、部族の長か、せいぜい祭祀君主程度であったの
でありましょう。
さらに余談ではありますが、「秦」「晋」「越」は漢民族の国ではな
く異民族なのであります。
※「信長の舘」の写真につきましては、著作権があることから公開
は出来ませんが安土城の天守閣が展示されています。




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